2015年12月31日木曜日

慶長の役で全羅道への進発前には慶尚道へ戻って築城することが決まっていた証拠『八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状』


慶長2(1597)年、慶長の役が本格的に始まり、7月の内には日本軍の主力が渡海を終えた。この頃、航路を妨害した朝鮮水軍に対し、日本水軍が決戦を挑み、7月15日漆川梁海戦(巨済島海戦)で朝鮮水軍を撃滅する。この戦闘報告は16日に第一報が発せられた。(8月9日、伏見の豊臣秀吉の元に達する)

これに続き23日、藤堂高虎は藤堂勢の一番乗りを証明する目付衆の書状や、藤堂勢の活躍を詳細に記した書状を藤堂太郎左衛門(重政)に持たせ、伏見の豊臣秀吉や奉行衆の元に派遣した。

8月21日、京都伏見にて藤堂太郎左衛門を引見した豊臣秀吉が返報として朱印状を発給し、これに奉行衆の増田長盛が添状を添付した。この増田長盛の添状は詳細で重要であり、ここで検討して行きたいので、まず翻刻文と訳文を記載する。


『(慶長二年)八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状』(同日付、豊臣秀吉朱印状の添状)
翻刻文(『高山公実録』収録のものに句読点を付加)

       

      御同太郎左衛門被差越、御注進之趣具遂披露候。

   今度番船被伐捕候儀、貴所行にて可有之由、此中御錠候処如御推量、一番ニ被伐捕、即被切崩候通各墨付、懸御目候、御感不斜候。

   赤国働相澄候て、各在城之所、御仕置之段、御書中之通、具披露申候。其表之義、不被成御覧所候条、何様ニも各見斗、可然様ニ可申付旨、御意候。則被成御朱印候最前御意之所よりも取出候而、可然候ハヽ、其通尤候由、御意候。乍去、面々居城之所、互ニ恣ニ被申候而、相済間敷と存候間、早々以絵図、被仰上可然候ハん哉。其段も、おそく成可申候条、唐嶋を対馬守ニ被下候上者、彼年寄ちんしゆ辺ニ成共、小摂被置、其外はくし取も可然候ハん哉。

   各取々御注進被申候へ共、一分ニ而之御注進状ハ正ニさせられす候。今度之調儀、貴所・小摂・脇中・福右馬・熊内蔵・垣和泉・なと被申上候通、一段と被聞召入候。

   御同太郎左衛門、御前江被召出、御腰物拝領、無比類仕合候。併貴所於其表御手柄故候。

   宮内少・藤仁右、自身番船被伐捕書付、具被 聞召候。於我等大慶此事。

   此方御前珍敷儀無之候。自然大明仁罷出候者、先年無御渡海候事尓、今御無念ニ被思召候条、一揆懸ニ可被成御渡海旨にて、名護屋迄之間御泊ニ、早舟・御馬なと被為置候。

   貴所此方御屋舖、大形らちあき候付きて、先日絵図を仕進し候。猶具ニ太郎左衛門方へ申渡候。恐々謹言。

八月廿一日

長盛花押  

藤堂佐渡守殿

御返報


訳文


      藤堂太郎左衛門(重政)が派遣されてきて、報告にある経緯を詳しく(太閤様に)披露されました。

   このたびの敵水軍撃破について、貴方の活躍によるものであることが、この中で認定されましたところは御期待のとおりで、一番に敵を討ち捕え、切り崩されました各々のお墨付きを、目に留められ、甚だしく感心されていました。

   全羅道進攻任務が完了した後に、諸将が在番する城の築城予定地と、統治体制について、書状の中に記された通り、詳しく披露しました。そちら方面で、(築城予定地が書状の中に)記載されていない所であっても、どのようにでも諸将が検討して、適正に処置することは、御意であります。即ち御朱印状による認可を受けた最初に決められた所よりも張り出した地に、築城したほうがよいということならば、その通り尤もなことであり、御意であります。しかしながら、諸将が居城の場所を、それぞれ勝手気ままに主張しあったならば、収集のつかないことになると思いますので、早めに絵図に書いて提出しておくのがよいでしょう。その場合も、遅くなるというならば、唐嶋(巨済島)が対馬守(宗義智)に下賜される上は、彼の年寄(氏名不詳)が晋州辺り(泗川)になっていますが、そこには小西行長を配置し、その他はくじ引きで決めてもよいでしょう。

   諸将が個々に報告を上げていますが、個別の報告書は正式なものとは認められません。このたびの審議では、貴方・小西行長・脇坂安治・福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・等が申し上げられた通りを、ひときわお聞き入りになっていました。

   藤堂太郎左衛門を、御前へ召し出されて、御褒美の刀を拝領したことは、比類の無い出来事です。これも貴方の朝鮮における御手柄によるものです。

   藤堂高吉や藤堂高刑が自ら敵船を討ち捕えた書状について、詳しく聞いておられました。これは我等にとっても大いなる喜びです。

   こちらは太閤様の近辺で特別なことは起こっていません。もし明軍が出撃してきたならば、先年に渡海(文禄年間の朝鮮渡海)が実現しなかったことのみを、今は無念に思っておられるので、一騎駆けで渡海になられるため、(伏見から)名護屋までの間の中継地に、早船や乗馬などが配置されています。

   貴方のこちら(伏見)の屋敷は大方完成しましたので、先日絵図を作成しました。なお詳しくは藤堂太郎左衛門に言い聞かせています。

(慶長2年)8月21日

増田長盛   

藤堂高虎殿

御返報

この書状の内、慶長の役で全羅道への進発前には慶尚道へ戻って築城することが決まっていたことの証拠となるのが下線を引いた2ヶ条目である。婉曲で回りくどい表現が用いられているので、もっと要点を抽出すると 


  • 全羅道進攻任務が完了した後に、諸将が在番する城の築城予定地と、統治体制ついて、書状の中に記された通りに披露された。
  • 築城予定地が書状の中に記載されていない所であっても築城してもよい。
  • 最初に決められた所よりも張り出した地に築城してもよい。
  • 諸将の居城とする場所は、早めに絵図に書いて提出すること。
  • 晋州辺り(泗川)には小西行長を配置し、その他はくじ引きで決めてもよい。


藤堂高虎の使者、藤堂太郎左衛門が朝鮮の戦地を発する慶長2(1597)年7月23日までに、諸将が在番する諸城の築城予定地が現地軍により決まっており、その事を記した書状が、豊臣政権の中枢に向けて発送されたということが判明する。この慶長2年7月23日は漆川梁海戦(巨済島沖海戦)で朝鮮水軍を撃滅した直後であると共に、全羅道攻撃に進発する直前の時期である。

このように、全羅道進攻任務完了後に慶尚道に戻って築城することは最初から決まっていたことであり、慶長の役に於いてこの通りに日本軍は行動した。

この築城予定地に関する内容は、日本軍が忠清道進攻を完了し、全羅道進攻任務が最終段階に達した9月16日に開催された井邑軍議で最終決定することになる。 

井邑軍議の報告書として提出された『九月十六日付注進状』には
御仕置城々、各致惣談、相定申候、就は小西摂津守城之儀、宛前(最前)は、しろ国(慶尚道)之内と、被成御諚候へ共、赤国(全羅道)順天郡内、所柄見合候得而、取出可申候事、

と、小西行長が在番する城が最初は慶尚道内であったが、初に決められた所よりも張り出して全羅道の順天に築かれることが決定し、他に立花宗茂の居城が固城に築かれることも決定している(『九月十六日付注進状』についての詳細は前回の投稿を参照のこと)。これは即ち『八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状』に最初に決められた所よりも張り出した地に築城してもよい。」と言及されていたことに対応する事柄である

ここで朝鮮側の記録である『宣祖実録六月十四日条』を見てみると

•豊茂守の発言「六七月間, 大兵渡海, 先擊慶、全羅等道後, 還駐沿海, 欲奪濟州。」

•豊臣秀吉の諸将への命令「汝等爲先鋒, 躪踏慶、全羅、濟州等地後, 退兵宜寧、慶州等處屯據, 召募朝鮮散卒遺民, 合我軍, 大作農事, 積峙兵糧, 明年又明年, 漸次奪據, 則朝鮮地方將爲日本之地。」

と沿海の地に戻って駐屯することが既に記されている。これも日本軍が全羅道・忠清道へ進発する前である6月14日の記録なのだ。

現在の韓国において「稷山の戦い(9月7日)や鳴梁海戦(9月16日)で日本軍が敗れて退却し、倭城を築いて守勢に回った」という類の主張が一般化しており、日本に於いてもこれに迎合的姿勢を示し、無批判に受け入れるような主張が見られるが、これは完全な過ちである。

既にホームページや当ブログで説明してきたように、稷山の戦いで退いたのは明軍であり、鳴梁海戦で退いたのは朝鮮水軍で、両戦闘後も日本軍の進撃が継続されたことは、日本側と朝鮮側双方の史料に記録されており疑いようがない。その後10月前半までに日本軍は忠清道と全羅道の掃討作戦を成し遂げて、最初からの予定どおり沿岸部に移動して築城した。これが慶長の役の真実である。



2014年9月30日火曜日

井邑軍議と鳴梁海戦、同一日付が示すもの

慶長2年(1597)9月16日に全羅道掃討中の諸将が会合し、掃討任務完了後の築城予定について決定した“井邑軍議”の決定事項を報告した書状について解説し、その日付が鳴梁海戦と同一であることが何を示すかについて述べる。

このことについて述べようと思えば、まず慶長の役で日本軍がいかなる戦略目標をもって行動していたかを初めから述べて行かなければならない。

文禄の役の後、続けられていた講和交渉は決裂し、再征が決定した。これが慶長の役である。


   赤国(全羅道)不残悉一篇ニ成敗申付、青国(忠清道)其外之儀者、可成程可相動事。
   右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。
(慶長二年)二月二一日付・豊臣秀吉朱印状』
慶長2年2月21日、豊臣秀吉が全軍に発令した戦略方針は、全羅道を残らず徹底的に掃討し、なるべく忠清道等にも侵攻する。それが完了したならば朝鮮南岸地域に城郭群を帰国予定の大名に担当を割り振って構築し、完成後は在番の大名以外は帰国するというものであった。

そして、こうした侵攻と撤収(ヒット・アンド・アウェイ)を長年にわたって何度も反復することで、敵を疲弊させ、その抗戦能力と抗戦意志を破壊し屈服させるというものだ。(慶長の役における日本軍戦略についての詳細は、私のHP“真相” 文禄・慶長の役・慶長の役戦略を参照のこと)

慶長2(1597)年6~7月にかけて遠征軍主力が渡海して慶長の役は本格化する。7月、漆川梁海戦で日本水軍は決定的勝利を得て制海権を獲得すると、水陸から全羅道へ向かって進攻が開始され、8月半ばに南原城と黄石山城を抜いて、下旬全羅道北部の全州へ入る、ここで全州軍議か開かれ、先に忠清道へ向かい、その後に全羅道掃討を行うことが決する。

この方針を受け、9月上旬までに、忠清道での掃討任務を成功裏に終えた陸軍諸将は、全羅道に戻り、井邑という場所に集まって、今後の全羅道掃討方針と、その完了後の倭城群構築について協議した。その決定事項を書き記し、豊臣政権中枢に送付したのが、この9月16日付の陸軍諸将連署状である。

原文
      謹而奉致言上候、

      先度自全州御使衆ニ如申上候、青国(忠清道)へ相動、国中過半発向仕、夫ゟ赤国(全羅道)うち相残こほり〳〵、各至割付、発向仕半ニ御座候、隙明申次第、御仕置城御普請ニ、取掛り可申候事、

   今度、青国、赤国致発向郡々之事、委細絵図ニ書付、致進上候事、

   御仕置城々、各致惣談、相定申候、就は小西摂津守城之儀、宛前は、しろ国(慶尚道)之内と、被成御諚候へ共、赤国順天郡内、所柄見合候得而、取出可申候事、

   釜山浦之儀、宛前は羽柴左近(宗茂)可致在城之旨、雖被仰出候、日本よりの渡口ニ御座候得は、御注進をも被申上、又御下知をも、先手へ差計被申觸候ために、毛利壱岐守在城被仕、可然と申儀ニ御座候事、

   羽柴左近事、慥成仁ニ而御座候、併其身若候間、島津・鍋島城之間、一城取拵、被致在番候へと申儀ニ候、此等之旨、宜預御披露候、恐惶謹言、

九月十六日
備前中納言秀家
蜂須賀阿波守家政
小西摂津守行長
薩摩侍従義弘
土佐侍従元親
吉川侍従広家
生駒讃岐守一正
鍋島加賀守直茂
島津又八郎忠恒
長曾我部右衛門大輔
池田伊予守
中川修理大夫
熊谷内蔵允直盛
早川主馬首
垣見和泉守一直
徳善院
増田右衛門尉殿
石田治部少輔殿
長束大蔵大輔殿
(征韓録)
大日本古文書・島津家文書之二(九八八)同文

ブログ主tokugawa訳文
      つつしんで申し上げます。

      さきに全州で(太閤様の)御使者に申し上げましたとおり、忠清道に進攻して、道内の過半に進撃、これから全羅道内で未だに残っている諸郡について、諸将の担当を決めて、進撃している途中です。この任務が完了次第、仕置の城(倭城)の築城工事にとりかかります。

   このたび、忠清道、全羅道の進撃した諸郡について、詳細を絵図に書きしるし、提出します。

   仕置の城々の予定地について、諸将で相談して、決定しました。小西行長在番の城について、以前は慶尚道内と決まっていましたが、全羅道の順天郡内へ、張り出して築くことにしました。

   釜山について、以前は立花宗茂が在城すると言っていましたが、日本からの渡海口なので、報告の上申や、御命令の前線諸軍への伝達をしなければならないため、毛利勝信が在城するほうがよいだろうということになりました。

   立花宗茂は、立派な人物ではありますが、まだ若いため、島津の城(泗川)と鍋島の城(昌原)の間(固城)に一つ城を築き、在番しようということです。これらの事柄について、(太閤様に)披露していただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

(慶長2年)九月十六日
宇喜多秀家
蜂須賀家政
小西行長
島津義弘
長宗我部元親
吉川広家
生駒一正
鍋島直茂
島津忠恒
長宗我部盛親
池田秀雄
中川秀成
熊谷直盛
早川長政
垣見一直
前田玄以殿
増田長盛殿
石田三成殿
長束正家殿



この井邑軍議の書状には、以前は慶尚道内と決定されていた倭城群の構築予定地の範囲を全羅道の順天まで拡大することが記されている。他にも立花宗茂在番の城についても言及されている。

鳴梁海戦は慶長2年の9月16日で、この書状の日付も9月16日である。鳴梁海峡と井邑は直線距離で120km以上離れた場所であり、この時代の情報通信能力で当日中に鳴梁海戦の情報が伝わることは絶対に有り得ない。朝鮮南岸の地に倭城群の構築することは、鳴梁海戦の結果を待つことなく、既に決まっていたことである。 「鳴梁海戦で朝鮮水軍が勝利し、敗北した日本軍は水陸ともに後退し、倭城を築いて籠城せざるをえなくなった。」などという主張が存在するが、このような主張が虚構であることには、多くの証拠があり、これまでも説明してきた。この9月16日付の陸軍諸将連署状も、それを証明する史料の一つである。


 ※一般にこの井邑で行われた軍議は“井邑会議”と呼ばれることが多い、また他にも文禄・慶長の役中に行われた軍議についても“会議”が使われることは多い。これが間違いというわけではない。しかし、“会議”では戦争の真っ只中に最前線で武将達が行うものとしては緊張感が伝わらない。よって当ブログではより適正な用語として“軍議”を使うこととする。





2014年8月15日金曜日

鳴梁海戦,日本水軍戦勝認定書『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』及び『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』

5月29日に投稿した日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 は先にも述べたとおり鳴梁海戦を知る上で最も重要な一次史料である。この史料に対する返書として豊臣秀吉が発行した朱印状と、石田三成等の奉行衆が発行した連署状が『久留島家文書』の中に存在する。この二通の書状も極めて重要な一次史料であるが、やはり隠されてしまうのか文禄・慶長の役関係の書籍でほとんど見ることはない。そこでこの場で紹介することにする。(読みやすいように句読点を付けた)


『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』


九月十八日之書状、被加披見候。番船少々、赤国之内、水栄浦ニ有之處、即時追散之由、被聞召届候。就其来嶋出雲事、手負相果候旨、不便ニ被思召候。息右衛門一(康親)事、可罷越旨申候間、則被遣候。猶増田右衛門尉・石田治部少輔・長束大蔵大輔、可申候也。

(慶長二年)十月十五日 ○(秀吉朱印)
毛利民部大輔とのへ
脇坂中務少輔とのへ
加藤 左馬助とのへ
菅 平右衛門とのへ
藤堂 佐渡守とのへ
 発行者:豊臣秀吉
 宛先:毛利高政・脇坂安治・加藤嘉明・菅達長・藤堂高虎(朝鮮在陣中の船手衆)



『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』

今度番舟重而有之所へ被押懸、即時ニ被追散由候。然処来嶋出雲方、蒙矢手被相果由、御注進之通、令披露候処、不便ニ被思召旨ニ候。則如被申越、子息右衛門一郎被差遣候。勿論跡目無异儀被仰付候。舎弟彦右衛門、家中之者以下、堅被申付通達 上聞候。弥きもをいるへき旨を、具以 御朱印被 仰出候。恐々謹言。
 
(慶長二年)十月十七日
増右
長盛(花押)
長大
正家(花押)
石治
三成(花押)
徳善
玄以(花押)
毛利民部大輔殿
藤堂 佐渡守殿
加藤 左馬助殿
脇坂中務少輔殿
菅 平右衛門殿
御宿所
 発行者:増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以(豊臣政権奉行衆)
 宛先:毛利高政・藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治・菅達長(朝鮮在陣中の船手衆)

 

 
二つの書状の要旨をまとめると
  1. 全羅右水営において日本水軍が朝鮮水軍を攻撃し、これを追い散らしたことを豊臣秀吉や奉行衆が認定したこと
  2. 来島通総の戦死を豊臣秀吉が不憫に思い、息子の右衛門一(康親)に来島家を相続させ戦地に派遣すること

1.について
 ここで注目すべきは、日本水軍が朝鮮水軍を追い散らした事実があり、それを豊臣秀吉や奉行衆という豊臣政権中枢が認定していることだ。すなわち、この二通の書状は実質的に鳴梁海戦における日本水軍戦勝認定書である。「鳴梁海戦で朝鮮水軍が日本水軍を撃退した」、「鳴梁海戦で朝鮮水軍が制海権を握った」、「日本軍の補給を断った」などといった言説が虚構であることはこれまで何度も証明しているが、ここでもこれら言説が一次史料に合致しないことが再認識される。

2.について
 来島通総の息子右衛門一(康親)は、父が戦死したとき大坂か伏見に居たと思われる。父の戦死後、秀吉に召し出され、来島水軍の統率者として朝鮮に派遣されることとなる。右衛門一はこのとき十六歳。
 右衛門一が到着までの間、前線の来島水軍を統率したのは通総舎弟の彦右衛門(村上通清)のようだ。鳴梁海戦後、全羅道西海に進撃した日本水軍の捕虜となった姜沆は『看羊録』に「通総が全羅右水営で戦死した時、弟が代わってその城に居ることになった」と記している。



おわりに
 それにしても、以前紹介の日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 や、今回紹介した『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』、『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』は鳴梁海戦の真実を知る上で欠くことができない第一級の一次史料である。しかしながら今まで多くの文禄・慶長の役関連の書籍・論文の類が発表され、鳴梁海戦についても解説されているが、その中にこれら重要記録を反映させたものが一体どれだけ存在するのだろうか?
 今後、鳴梁海戦を解説しているにも係わらず、こうした重要記録の内容を無視したものがあるならば、それは価値のないものだと見做すべきであろう。