2010年12月27日月曜日

(旧版)蔚山戦役

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作戦目標であった全羅道・忠清道の成敗を達成し、さらに京畿道まで進出した日本軍は、作戦予定に沿って慶尚道から全羅道の沿岸部へ撤収し、文禄期に築かれた城郭群域の外縁部(東は蔚山から西は順天に至る範囲)に新たな城郭群を築いて久留の計を目指した。城郭群が完成後は各城の在番軍以外は帰国する予定で、翌年慶長3年(1598年)中は攻勢を行わない方針を立てていた。

築城を急ぐ日本軍に対して、明軍と朝鮮軍は攻勢をかける。12月22日、完成直前の蔚山倭城(日本式城郭)を明と朝鮮の軍56,900人が襲撃し、攻城戦を開始するが、急遽入城した加藤清正を初め日本軍の堅い防御の前に連日大きな損害を被り苦戦を強いられた。

蔚山城を強攻した明・朝鮮軍は多くの損害を出している。

  • 倭堅壁不出。島山視蔚山高,石城堅甚,我師仰攻多損傷。『明史朝鮮伝』[24]
  • 賊之防備甚密、城亦堅険、先登者不得出、在外之軍亦不得毀城、遊撃陳寅中大丸、士卒雖蟻附仰攻、而不能著足。(申欽『象村集』)
  • 外兵若至城下、則銃丸乱発如雨、毎日交鋒、天兵與我軍、死城下成積。(柳成龍『懲毖録』)
蔚山本城に砲撃したが効果が上がらなかった。(宣祖実録蔚山戦記事より)
  • 試放大碗口, 則山坂峻高, 砲石有礙, 不能直衝, 終日不拔云。(※大碗口とは明・朝鮮軍が用いた臼砲の一種)
  • 天兵與我軍, 攻打 倭賊 內城, 城甚堅險, 大砲不能撞破。
  • 欲以大碗撞破, 而城高勢仰, 不得施技。
このため明・朝鮮軍は強襲策を放棄し包囲戦に切り替える。このとき蔚山城は未完成であり、食料準備も出来ていないままの籠城戦で日本軍は苦境に陥る。年が明けた翌1598年1月になると蔚山城は飢餓により落城寸前まで追いつめられていた。
しかし、1月3日毛利秀元等が率いる援軍が到着する。これにより明・朝鮮軍は早急に城を落とす必要を迫られ、その夜から翌4日朝にかけて総攻撃をかけるが、大損害を受けて攻撃は失敗した。もはや勝算無しと判断した楊鎬は撤退を決意し、明・朝鮮軍は撤退を開始する。日本軍は退却する明・朝鮮軍を追撃して戦果を拡大した(『宣祖実録』・1月22日付毛利秀元以下17将宛朱印状』・『清正高麗陣覚書』の吉川広家の活躍・『朝鮮軍陣図屏風』第三隻)。最終的に明・朝鮮軍の損害は20,000人に及び、戦いは日本軍の勝利となる。
諸将は一騎懸であったため十分な兵力を有していなかったこと、兵糧不足であったこと、鍋島・黒田に関しては居城の防備に不安を覚えていたこと、これらの理由と、日本軍は既に多くの戦果を得ていたこともあり追撃を終え帰還した。敵を悉く討ち果たすような徹底的追撃戦を望んでいた秀吉は不満であったようだ。それは朝鮮南部に明の大軍を誘引して殲滅することが慶長の役当初からの重要な戦略であったからだ。
蔚山城の戦いの後、立地上突出しすぎている、順天、梁山、蔚山の三城を援軍が困難故に放棄すべきという案(一月二六日付注進状)が、宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政、生駒親正、藤堂高虎、脇坂安治、菅三郎兵衛、松島彦左衛門、菅右衛門八、山口玄蕃頭、中川秀成、池田秀氏、長宗我部元親(これら諸将が率いる兵力は慶長の役開始時点で日本軍中の半数)、の連署で上申されたが、小西行長、宗義智、加藤嘉明、立花宗茂等、の反対もあり、秀吉はこれを却下しその後も維持れることとなる(梁山放棄は認められる)。上申武将は叱責された。
  • 純軍事的観点から見れば、防御範囲を縮小することは防御を容易なものとするため妥当性のある見解のように思える。しかし、より高度な戦争遂行上の観点から見ると大きな問題が生じる。もしここで上申どおりに三城(特に実際に戦闘が行われた蔚山)が放棄されていたなら、明・朝鮮軍による蔚山城攻撃が倭軍を後退させるという大成果を上げた戦いであるかのようなプロパガンダの成立も可能となり、その後の戦争経緯に影響を生じるのである。その意味で秀吉が三城放棄案を却下した判断は正解である。
  • 三城放棄案について、これを在朝鮮日本軍の士気低下のように主張する言説があるが、これは根拠のないことだ。三城放棄案の内容に士気低下を述べた文言など全く存在しない。ただ軍事的観点から防御体制を最適化する事を述べたものである。防御拠点は集約化したほうが防御は容易であり、この案を上申した諸将はこうした観点から意見具申を行ったのだ。これを在朝鮮日本軍の士気低下のように主張するのは、あまりに恣意的な拡大解釈と言わざるを得ない。また、在朝鮮日本軍の士気低下説論者は、三城放棄案を在朝鮮諸将大多数の見解であるかのような印象を与える書き方をし、その上で在朝鮮日本軍全体の士気低下のように主張しているが、実際は上申諸将は兵力比で全体の半数に過ぎない。この案は恣意的な拡大解釈をされた上に大袈裟に強調されることがあるが、所詮却下された提案にすぎず、また却下された結果これといった不都合が生じたわけでもない。戦争経過に殆ど影響を与えなかったことであり、本来なら、それほど大袈裟に強調するほどの出来事ではない。
追撃で敵を悉く討ち果たすには至らなかったことと、三城放棄案に加え、後に帰国した目付の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直が蜂須賀家政・黒田長政が「合戦をしなかった」との報告に接すると秀吉は激怒し、処分が下された。 誤説「蔚山城の戦いで追撃が行われなかった」の検証 蔚山城の戦いで「追撃が行われなかった」。或いは「殆ど追撃が行われなかった」。福原ら目付衆が「追撃しなかったと報告した」などといった説が流布されているが、これらは誤説である。 蔚山城の戦いにおいて追撃戦が行われ戦果が拡大されたことは、日本・朝鮮双方の各種史料に記録されていることであり明確である。
  • 『1月22日付朱印状』には、追撃により数多くの敵を討ち取ったことが記されている。
  • 『宣祖実録』には、退却する明軍が30里にわたって日本軍の追撃を受け、大損害を受けた様子が記されている。
“本月初四日各營回軍事, 則已爲馳啓矣。 當日諸軍撤還之際, 水陸 倭賊 , 合兵追擊, 至于三十里之外。 唐軍死者無數, 或云三千, 或云四千, 其中 盧參將(盧繼忠) 一軍, 則以在後, 幾盡覆沒云, 而軍中諱言, 時未知其的數矣。 大抵無端撤軍, 賊乘其後, 蒼黃奔北, 自取敗衂, 弓矢、鎧仗, 投棄盈路, 以至藉寇, 安有如此痛哭之事? 言之無及– ・, 『宣祖実録』
  • 『清正高麗陣覚書』には、吉川広家が明軍の退路を寸断し、大戦果を上げる様子が記されている。
  • 『朝鮮軍陣図屏風・第三隻』にも、敗走する明・朝鮮軍を日本軍が猛追撃する様子が描かれている。
ところが「追撃による戦果拡大」を記した『1月22日付朱印状』が、なぜか「追撃が行われなかった」という誤説の根拠として引用されるので、これについて解説する。
一、蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付、各川を越へ、追討に数多く討ち捨つる由、聞し召し届け候、一騎懸に付て、兵糧これ無く、人数これ無き故、悉くは討果さざる段、残り多く思し召され候事– ・, 『1月22日付朱印状』
見ての通り、実際のところ、この書状には「蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付、各川を越へ、追討に数多く討ち捨つる由、聞し召し届け候、」と、追撃戦が行われ大戦果を上げたことが記されている。 秀吉が残念がったのは、「悉くは討果さざる段、残り多く思し召され候事」と記されているように、敵を殲滅するには到らなかったことであり、誤説で言われるような「追撃が行われなかった」などということはどこにも書かれていない。 むしろ秀吉は「追撃戦が行われ大戦果をあげた」ことを賞している。 次に、これまた「追撃が行われなかった」という誤説の根拠として引用される『福原長尭・垣見一直・熊谷直盛、五月二十六日付、島津義弘・忠恒宛書状』についても解説する。
一、蔚山へ唐人取り懸りに付て後巻の次第、唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候といへども、蜂須賀阿波守・黒田甲斐守、その日の先手の当番に有りながら、合戦仕ざる趣申上げ候処に、臆病の由御諚なされ、御逆鱗大形ならず候– ・, 『福原長尭・垣見一直・熊谷直盛、五月二十六日付、島津義弘・忠恒宛連署状』
福原長尭・垣見一直・熊谷直盛の三目付は「合戦仕ざる趣申上げ候」と、蜂須賀・黒田が合戦しなかったと秀吉に報告した。 しかし、誤説が言う「追撃しなかった」などとは一切報告していない。ところが誤説では「合戦仕ざる趣申上げ候」を「追撃しなかった」と勝手に言い換えている。 また、この書状にある「合戦しなかったと報告された」出来事は、「唐人河を越え、少々山に乗り揚げ候」とあるように、少数の明軍部隊が太和江を越えて、高地上の日本の赴援軍に攻撃を仕掛けたときのことであり、追撃戦とは無関係だ。 『宣祖実録』にも1月3日に日明両軍の間に小戦闘が起こったことが記されている。
而初三日遙峯之賊, 漸漸流來, 或飛揚於賊壘越郊, 或列立於 箭灘 之南山。 又以精兵五六十, 下山底, 而天兵不敢逼, 一度相戰, 均解而退, 山頂之賊, 建旗屯宿。– ・, 『宣祖実録』
この小戦闘の様子は日本の赴援軍と明軍が太和江を挟んで対峙する様子を描いた『朝鮮軍陣図屏風・第二隻』の左下にも描かれていて、明軍騎兵の一部が太和江を渡り弓矢を射掛け、日本軍の鉄砲隊と射撃戦となっている。 このとき蜂須賀・黒田が実際に戦わなかったのか、それとも戦ったにも係わらず戦わなかったと報告されたのかは不明だが、明確なことは、これは日本の赴援軍が太和江の南の高地に到着した1月3日のことで、1月4日に行われた追撃戦時の出来事ではない。 にもかかわらず三目付が「追撃しなかったと報告した」などといった誤説が平然と流布されているのである。 以上、これまで述べたとおり、 日本・朝鮮双方の複数の史料に「追撃が行われ大戦果を上げた」ことが明記されており、逆に「追撃が行われなかった」とは記されていない。 蔚山城の戦いで「追撃が行われなかった。」或いは「殆ど追撃が行われなかった。」 福原長尭ら三目付が「追撃しなかったと報告した。」といった説が成立する余地はない。 史実は「蔚山城の戦いで追撃戦が行われて大戦果をあげた、だだし敵を殲滅するには到らなかったことに秀吉は不満に思った」であり、これを「蔚山城の戦いで追撃が行われなかった」などと言い換えるべきではない。