2010年12月27日月曜日

(旧版)上陸開始から漢城占領まで

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天正20年(1592年)4月12日、先陣の一番隊は対馬北端の大浦を出港し釜山に上陸した。釜山には1000人の朝鮮軍が守っており、小西・宗は仮道入明を要求するが朝鮮側は応じず、翌13日に総攻撃をかけて攻略した(釜山鎮の戦い・鄭撥戦死)。釜山陥落をみた慶尚左水師朴泓は左水営と配下の水軍を捨て逃亡。4月14日に東莱に対し仮道入明を要求し朝鮮側は応じず攻略した(東莱城の戦い・宋象賢戦死)。4月15日に機張、左水営占領、4月17日に梁山に入ると鵲院の隘路で密陽府使朴晋の軍を一蹴し、4月18日に密陽、その後に大邱、仁同、善山を次々と占領する。朝鮮朝廷は李鎰を慶尚道巡辺使として4000の兵を授けて派遣する。尚州周辺で民衆を徴募した兵と合わせて6000。これを4月24日に尚州郊外で撃破(尚州の戦い李鎰敗走)。4月27日に慶尚道から鳥嶺を越え忠清道へ進軍、弾琴台の戦いで迎撃に出た申リツ率いる8000の朝鮮軍を壊滅させ忠州を攻略。京畿道に進み5月1日に麗州占領後、5月2日に竜津を経て漢城東大門前に到達。翌5月3日には首都漢城に入城、後続諸隊も続々と漢城に入った。
秀吉の元に緒戦の勝報が届くと、秀吉は出征諸将の戦功を賞賛するとともに、占領地において、放火の禁止、民衆の殺戮や捕獲を禁止、逃散した民衆の郷里に還往する者への米銭等の賦課を禁止、飢餓に陥った民衆を救済すべきこと、捕獲した男女があればこれを放還すべきこと、等を命じた。『鍋島家文書』『毛利家文書』『紀州徳川家文書』

朝鮮国王宣祖は日本軍が漢城に入城する前に逃亡しており、朝鮮王朝の圧政に苦しんでいた民衆は、国王の脱出と同時に、景福宮、昌徳宮、昌慶宮の三王宮、官衙や王族の私邸を襲い、宮闕に乱入しては略奪をほしいままにし火を放っていた。特に奴隷的階層であった奴婢の身元を示す台帳を保管していた掌隷院は、身分的解放を求める人々によって襲撃されている。(王宮が日本軍入城以前に放火されていたことは日本側記録にもあり。吉見家朝鮮陣日記 吉野日記(松浦家臣吉野甚五左衛門記))