2010年12月27日月曜日

(旧版)全羅道への進撃

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講和交渉の決裂後、先鋒の小西・加藤が慶長1年末から翌2年1月ごろに朝鮮に入っているが、主力の諸勢は4月以降漸次渡海し、7月には14万を越える大軍が釜山周辺に出揃った。 これに対し明でも麻貴を備倭大将軍として朝鮮に軍を派遣するが、その数は僅か1万7千に過ぎなかった(明史・朝鮮伝)。また同時に各地から兵を徴集するが、これが朝鮮に入るのは、だいぶ後のことになる。このため慶長の役が始まっても、明軍の戦力は日本軍に対抗出来るものではなかった。
釜山周辺に集結していた日本軍は7月16日漆川梁の海戦で朝鮮水軍を殲滅すると陸上でも全羅道を目指して進撃を開始する。このとき明・朝鮮軍では全羅道と慶尚道との道境付近にある南原城と黄石山城で守りを固めていた。

日本軍は左軍と右軍の2隊に分かれ西進し、左軍は8月15日南原城を攻め落とし(南原城の戦い)、右軍は8月16日黄石山城を攻め落とす。続いて両軍は全羅道の中核都市全州に向かって併進した。するとここを守る明将陳愚衷は恐れをなして逃走したため戦うことなく8月19日全州を占領する。ここで諸将は軍議を開き、全羅道及び忠清道を掃討し、その完了後は転進して沿岸部へ築城するという既定方針が再確認されるとともに、より具体的な事項が決定され、順次進発してゆく。

7月15日 漆川梁海戦 - 藤堂高虎対元均
8月13日 南原城の戦い - 宇喜多秀家対楊元
8月16日 黄石山城の戦い - 加藤清正、毛利秀元、黒田長政、鍋島直茂



慶長の役陣立

右手の備(右軍) 計64300人
加藤清正 10000人
黒田長政 5000人
鍋島直茂・勝茂 12000人
池田秀氏 2800人
中川秀成 1500人
長宗我部元親 3000人
毛利秀元 30000人
目付け、早川長政・垣見一直・熊谷直盛

左手の備(左軍) 計49600人
小西行長 7000人
宗義智 1000人
松浦鎮信 3000人
有馬晴信 2000人
大村喜前 1000人
五島玄雅 700人
蜂須賀家政 7200人
毛利吉成・勝永 2000人
生駒一正 2700人
島津義弘 10000人
島津忠豊 800人
秋月種長 300人
高橋元種 600人
伊東祐兵 500人
相良頼房 800人
宇喜多秀家 10000人
目付け、太田一吉・竹中重利

船手衆(水軍) 計7200人
藤堂高虎 2800人
加藤嘉明 2400人
脇坂安治 1200人
来島通総 600人
菅達長 200人
黒田如水及諸家の水軍若干之に属す

諸城守備隊大約 計20000人
西生浦城 浅野長慶 3000人
釜山城 小早川秀秋 10000人
安骨浦城 立花統虎 5000人
竹島城 小早川秀包 1000人
加徳城 筑紫広門 500人・高橋統増 500人

総計141500人