2011年4月28日木曜日

文禄の役、日本側戦死者数算定方法の不適切さについて

 文禄・慶長の役開始前の陣立書に書かれた人数から、晋州城攻撃時等の陣立書に書かれた人数を差し引いた数値を日本側戦死者数のように主張するものがあるが、こうした単純な引き算による戦死者数算定は国内に送り返された者の人数を考慮していないものであり不適切である。

 文禄元年11月10日付書状で熊川に残置する警護船以外の水夫を帰国させ休養させるよう指示している。
手前所持之舟、こもかい口警護船ニ申付分残置、其外ハ慥奉行相副漕戻、かこ共在々へ遣、可休候

 さらに、文禄の役開始2年目の文禄2年2月5日付書状では、秀吉は朝鮮に渡った水夫を、15歳から60歳までの者をすべて名護屋まで送るよう命令している。

 水夫の比率がどの程度のものかというと、文禄元年の五島純玄勢を例に取ると、軍役人数705人の内、船頭と水夫が200人と3割に近い高比率を占めている。船頭と水夫の比率は五島勢以外でも違いはあれども低くはないはずである。他にも傷病者が後送されている可能性も十分考えられる。

 このように多くの人員が晋州城攻撃より前の時点で朝鮮から引き上げているのであり、こうした国内に送り返された者の人数を考慮せず、単純に文禄の役開始前の陣立書に書かれた人数から、晋州城攻撃時等の陣立書に書かれた人数を差し引いた数値を日本側戦死者数のように主張する戦死者数算定方法が適切性を欠いているのは明らかである。

(そもそも、軍役人数の内、水夫は大名に付き従って内陸の作戦に参加していないのではなかろうか。)

2011年4月24日日曜日

水軍拠点を本土や大きな島に置くことを好まなかった李舜臣

李舜臣の水軍拠点について。
文禄・慶長の役が始まる前、朝鮮王朝は水軍の拠点を本土や大きな島に設置していた。主要な拠点は以下の通り。

慶尚左水営=東莱 水使(朴泓)板屋船24隻
慶尚右水営=巨済 水使(元均)板屋船73隻
全羅左水営=麗水 水使(李舜臣)板屋船24隻
全羅右水営=海南 水使(李億祺)板屋船54隻
忠清水営=保寧鰲川 水使(?)板屋船45隻
※水使=水軍節度使=水軍司令官
板屋船=朝鮮水軍の主力艦で日本の安宅船に相当 

 これらの水軍拠点は何れも水路の要衝に位置しており水軍の出撃や水路の抑えとして好位置である。しかし、李舜臣はこうした朝鮮本土や巨済島のような大きな島の拠点を好まなかった。文禄の役で(文禄2年7月14日)閑山島に、慶長の役でも古今島に本営を移した。この二つの島は何れも小島である。

このような小島に本営を置く理由は日本軍による陸上からの攻撃を恐れてのことと思われる。本土の拠点は日本軍から陸伝いに侵攻を受ける恐れがあるし、島に置かれた拠点でも島が大きいと離れた位置に上陸してから陸伝いに侵攻を受ける恐れがある。

李舜臣は陸上で日本軍と戦うことには自信がなかったようだが、船同士で戦う船戦には自信を持っていた。朝鮮の水軍基地である水営は低くて簡素な城壁を周囲に廻らす程度のもので、決して堅固な構造ではなく、陸から日本軍の攻撃を受けたならば防衛は困難だ。小島に拠点を置いておけば、日本軍が侵攻するなら必ず船で海上からやってくることになり、水上戦で迎撃することが出来きるということだ。

2011年4月16日土曜日

順天城の戦いで明将劉綎が総攻撃失敗の後、攻撃を停止した理由

(参照→三路の戦い - “真相” 文禄・慶長の役
慶長3(1598年)9月19日から10月7日にかけて、明・朝鮮軍が小西行長の守る順天倭城を攻撃した。この順天城の戦いは東アジアにおける当時最先端の水陸の軍事技術、攻城・守城術が駆使された興味深い戦いであるが、この時の明・朝鮮の陸軍総司令官である劉綎の行動に疑問が浮かび上がる。

この戦いでは10月2日の総攻撃失敗の後、明の陸軍を率いる劉綎は攻撃を停止し、水軍のみが攻城を継続する結果となっている。水陸共同の攻城は劉綎の提案によるものであるにも係らずである。何故か?

それは、陸からの倭城攻撃が損害を出すばかりで成功の見込みが無く手詰まり感を感じるようになったからであろう。ただし、水軍による海からの攻撃には成功の可能性ありと希望を見出していたからではなかろうか。

遡って前年の慶長2(1597年)12月22日から翌慶長3年(1598年)1月4日にかけて戦われた蔚山城の戦いにおいても攻城戦で城内からの鉄砲の射撃により明・朝鮮軍は膨大な損害を出して攻城に失敗している。(参照→蔚山戦役 - “真相” 文禄・慶長の役) この時、攻城具なしで攻めかかったことが膨大な損害と攻城失敗の原因であると明・朝鮮側は認識したようだ。

この戦訓を取り入れて、順天城の戦いでは、劉綎は一時攻城を中断してまで雲梯、飛楼、防車、防牌等の攻城具を制作し、10月2日万全の態勢を整え順天城の惣構(外郭部)に攻めかかった。しかし、またもや城からの日本軍の鉄砲や大砲による反撃は激しく、結局多くの死傷者を出して攻撃は失敗している。攻城具の防御力もせいぜい小銃弾程度が限界で、大口径の火器に対しては十分な効力が無かったのではなかろうか。また日本軍は出撃戦術も併用して攻城具を焼き払い、明・朝鮮兵を白兵戦で撃攘している。劉綎にしてみれば万事休すといったところで、手詰まり感を感じざるを得ないだろう。

もし何らかの可能性を見出すなら、それは水軍による海上からの攻撃しかあるまい。順天城の遺構を見る限り陸側の外郭は石垣で固められた防壁が守りを固めており、突破することは困難である。それに対し、海側に目を転じてみると、石垣の防壁はなく海側防御は陸側よりも弱いことが判る。もし水軍が海側から惣曲輪内に侵入することに成功すれば、その時、陸側からも呼応して城内に雪崩れ込むと、惣構(外郭部)の防衛ラインを突破することが出来るはずである。劉綎は水軍による城内侵入成功を待って模様眺めしていたのであろう。

しかし、水軍の攻撃も成功せず、劉綎はただ傍観を続けるだけとなった。こうした状況で明水軍を率いる陳璘や、朝鮮水軍を率いる李舜臣は、水軍にのみ戦いを強いて自らは動こうとしない劉綎に対し憤怒の念を抱いている。

結局、陸からも海からも攻城成功の可能性がないことが判り、更に悪いことに泗川城を攻撃していた中路軍が島津軍に大敗したニュースが飛び込んでくると、もはや長居は無用とばかりに明・朝鮮軍は退却していった。

関連
“真相” 文禄・慶長の役

2011年4月14日木曜日

朝鮮使との会見

1590年、唐入りを前に、来日した朝鮮使を接見する場において、豊臣秀吉は我が子の鶴松を抱いて登場した。この時の秀吉の意図は、我が子を愛する父親の姿を演出すことで、自らの人間味を朝鮮使に見せ、場の雰囲気を和ませ、以後の日朝関係を円滑に進めたいと考えたのではないか。

 しかし、こうした秀吉の意図は堅物の朝鮮使には理解できなかった。朝鮮使、すなわち朝鮮官僚にとっては儒教的形式主義に沿った行動こそが唯一絶対の人間が取るべき行動であり、秀吉の我が子を愛おしむ姿での応対は、儒教的形式主義から逸脱するものであり、非礼なものと映った。

 ここに、東方礼儀の国を自称する儒教(特に朱子学)原理主義の朝鮮と、儒教的影響を表層的にしか受け入れなかった日本との文明感の違いがよく表れている。

 そもそも、単に接見の形式だけの話ではなく、儒教的価値観を国家の基本理念とする李氏朝鮮からすると、中華王朝へ政治的にも文化的にの服従することこそが、礼節に即した正しい行為であり、中華王朝へ攻め入るなどは、非礼であり邪道でしかないともいえる。