2011年5月30日月曜日

楊元 - Wikipediaを新規作成

楊元 - Wikipediaを新規作成。

楊元は明軍の武将の中で比較的健闘したほうだと思う。
守将として戦った南原城の戦いでは、籠城の末落城したといっても兵力差を考えると落城はやむを得ないことだし、逃走したことも落城寸前まで戦った末のこと。それらを考え合わせると処刑は酷ではなかろうか。
南原城の戦いが始まる前、朝鮮の諸将は至近の朝鮮式山城の蛟龍山城に籠城することを主張したが、楊元はこれを却下して平地の中国式平城の南原城で籠城し、最後は落城した。朝鮮の高官である柳成龍は『懲毖録』の中で平地の南原城に籠城したことに批判的で、「平城はダメで山城ならよかったという」趣旨の主張をしている。しかし、同時期に朝鮮式山城である黄石山城が日本の右軍の攻撃で二三日で陥落している。これに対し、南原城は数日間持ちこたえていることを考えれば、この主張は説得力に欠ける。

2011年5月26日木曜日

李如松一族の愉快なネーミングセンス

文禄の役で総兵官として明軍を率いたのは李如松。その弟、李如柏、李如梅、李如梧も文禄・慶長の役に参加している。

ちょっとここで、この李如松一族の名を並べてみると

父 李成梁
叔父 李成材
弟 李如柏、李如楨、李如樟、李如梅、李如梓、李如梧、李如桂、李如楠

見ての通り、李如松の兄弟は、松(マツ)の如し柏(カシワ)の如し楨(ネズミモチ)の如し樟(クスノキ)の如し梅(ウメ)の如し梓(アズサ)の如し梧(アオギリ)の如し桂(カツラ)の如し楠(タブノキ)の如し、と皆(樹木名)+(如し)になっている。彼らの父、李成梁が自分の息子たち全員を(樹木名)+(如し)で統一したことになる。

そして、李成梁とその兄弟といえば、梁を成す材を成す、と(木からできる部材の名)+(成す)が付けられている。二人の父、李英のネーミングと思われる。

何かこの一族は、よほど木にこだわりがあるようで、彼らのネーミングセンスはおもしろくて興味深い。