2014年7月18日金曜日

鳴梁海戦,安衛vs毛利高政+藤堂孫八郎・藤堂勘解由

 鳴梁海戦の中で、朝鮮水軍の安衛(巨済県令)と、日本水軍の毛利高政(船手衆目付)+藤堂孫八郎藤堂勘解由(ともに藤堂高虎家臣)の間で接舷切込み戦が起こっている。これについて、5月29日の投稿、鳴梁海戦,日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 で少し触れていたが、詳しく説明していなかったので、ここで詳しく触れて行きたい。

 まず鳴梁海戦接舷切込み戦に関する日本側記録を抜粋する。

『九月十八日付船手衆注進状』より
毛利民部太輔のり舟壱艘、幷藤堂佐渡守家中の舟壱艘、番舟の大船へ相付申候、然処ニ民部太輔則切乗、やゝ久相戦申、自身貳ケ所手負、其上海上ヘ被打落候、右之仕合誠無比類手からにて御座候、則民部太輔事者、藤堂佐渡右之付申候舟へ乗移、異儀無御座候、幷民部太輔のり舟も無異儀引取申候事
 <ブログ主tokugawa訳>
毛利高政の船1艘と、藤堂家中の船1艘が、朝鮮水軍の大船に横付けしました。毛利高政は敵船に乗り移って、しばらくの間交戦し、2ヶ所負傷した上、海上に落下しました。この(激闘の)様子は比類なき手柄でございます。毛利高政の身は藤堂家中の船に乗り移って無事でした。また毛利高政の乗っていた船も無事です。


『高山公実録』より
[黙記]
毛利民部大夫殿せき舟にて、はんふねへ御かゝり成候。はん船へ十文字のかまを御かけ候処に、はん船より弓鉄砲はけしくうち申候に付、船をはなれ海へ御はいりなされ、あやうく候処に、藤堂孫八郎藤堂勘解由両人船をよせ、敵船をおいのけ、たすけ申候。
  <ブログ主tokugawa訳>
毛利高政が関船に乗り、朝鮮軍船に攻めかかり、朝鮮軍船へ十文字の鎌を掛けたところ、朝鮮軍船から弓・鉄砲で激しく射撃してきたため、船を離れ海に入水、危いところで、藤堂孫八郎藤堂勘解由の二人が船を寄せ、敵船を追い退け、救助した。

勘解由家乗]
慶長二丁酉年、高麗後御陣の節御供仕、高麗番船の内へ一番に乗付、打かきを以て大船へ乗り、烈き働仕候由、右働の様子、太閤様御旗本御横目毛利民部大輔殿目前にて御働候故、御見届、高山様へ御直に委細被仰達、依之為御褒美、御名字拝領仕候。
  <ブログ主tokugawa訳>
 慶長2丁酉年、(長井勘解由は)慶長の役で(藤堂高虎の)お供をし、朝鮮水軍の中に一番に乗り付け、打ち鉤をもって大船に乗り移り、烈しく戦った。この戦いの様子は、太閤様の旗本で目付の毛利高政殿の目前での戦闘だったため、これを見届けられ、藤堂高虎様へ直接詳細にわたって伝えられた。これにより褒美として、(藤堂の)名字を拝領することとなった。

鳴梁海戦で日本水軍が用いた関船(中型高速船)
朝鮮水軍の主力となった板屋船(日本の安宅船に相当する大型船)

 次に朝鮮側記録から抜粋

『乱中日記草・丁酉日記』(乱中日記・原本)より
安衛荒忙直入交鋒之際、賊将船及他賊二船、蟻附干安衛船、安衛格卒七八名、投水遊泳、幾不能救、余回船直入安衛船、安衛船上之人、殊死乱撃、余所騎船上軍官之輩、如雨乱撃、賊船二隻、無遺尽勦
 <ブログ主tokugawa訳>
安衛が慌てて突入し交戦しようとしたとき、日本武将の船及び他の日本船2隻で、安衛の船に群がり付いてきた。安衛の格卒7・8名が海に落ちて泳いでいたが、ほとんど救うことはできなかった。自分(李舜臣)も船を回して安衛船のところに突入した。安衛の船上の人々は必死に乱撃し、自分が乗る船の軍官らも、雨の如く乱撃、日本船2隻を、残らず殺しつくした。

『乱中日記草・続丁酉日記』(乱中日記・加筆修正版)より
賊将所騎船、指其麾下船二隻、一時蟻附安衛船、攀縁争登、安衛及船上之人、各人死力、或持稜杖、或握長槍、或水磨石塊、無数乱撃、船上之人、幾至力尽、吾船回頭直入、如雨乱撃、三船之賊、幾尽顚仆、鹿島万戸宋汝悰・平山浦代将丁応斗船継至、合力射殺、無一賊動身
 <ブログ主tokugawa訳>
日本武将の乗る船がその麾下の船2隻に指図すると、安衛の船に一斉に貼り付いて、船の縁を争ってよじ登ってきた。安衛とその船上の人々は、各々死力をつくし、あるいは稜杖を持ち、あるいは長槍を握り、あるいは石弾を無数乱撃、船上の人々は、ほとんど力尽きるまでになっていた。自分(李舜臣)の船が回頭して突入し、雨の如く乱撃すると、3船の敵はほとんど倒れつくした。鹿島万戸・宋汝悰と平山浦代将・丁応斗の船も続いてやってきて、共に射殺すると、身を動かす敵は一人もいなくなった

 『李忠武公全書巻之八・乱中日記』(乱中日記・後世編纂版)より
賊將指揮其麾下船三隻。一時蟻附安衛船。攀緣爭登。安衛及船上之人。殊死亂擊。幾至力盡。余回船直入。如雨亂射。賊船三隻。無遺盡勦。
  <ブログ主tokugawa訳>
日本武将がその麾下の船3隻に指図すると、安衛の船に一斉に貼り付いて、船の縁を争ってよじ登ってきた。安衛とその船上の人々は、必死に乱撃し、ほとんど力尽きるまでになっていた。自分(李舜臣)も船を回して突入し、雨の如く乱射、日本船3隻を、残らず殺しつくした。

以上、抜粋終わり


 これら立場の異なるそれぞれの記録は各々の功績を強調する傾向が強く、誇張があるにせよ、大筋において矛盾なく調和的である。このことから同一の出来事を記録しているとみて間違いなく、対戦したのは朝鮮側が安衛で、日本側が毛利高政(友重)+藤堂(今井)孫八郎(忠重藤堂(長井)勘解由(氏勝)となる。

 これら記録を総合的に判断すると、この安衛vs毛利高政+藤堂孫八郎藤堂勘解由の接舷切込み戦は日本水軍側苦戦に終わったとみるべきだろう。しかし、これは戦術レベルの出来事でしかなく、結局のところ鳴梁海戦で後退したのは朝鮮水軍であり、日本水軍は前進を続け、戦略目的である全羅道西岸域の掃討任務を達成している。(→鳴梁海戦,朝鮮水軍の後退と日本水軍の前進

 戦術レベルの優勢を得ることに成功した朝鮮水軍であるが、それは戦術レベルを超えるものではなく、戦略レベルにおいては日本水軍の進攻を阻むことはできなかった。朝鮮水軍は先の漆川梁海戦でほとんど壊滅しており、鳴梁海戦時わずかに13隻しか戦力がなかった。一方の日本水軍はこの海戦で投入したのは関船部隊のみで主力の安宅船は温存されていた。関船部隊にいくらかの打撃を与えたところで、日本水軍の優勢状況が覆ることはなかったといえる。

 藤堂水軍の捕虜となった朝鮮官僚姜沆が著した『看羊録』で、鳴梁海戦後の9月24日に全羅道西岸の務安で1000隻の日本船が充満していたとある。鳴梁海戦後も日本水軍が十分な戦力を保持していた証拠となろう。