2014年8月15日金曜日

鳴梁海戦,日本水軍戦勝認定書『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』及び『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』

5月29日に投稿した日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 は先にも述べたとおり鳴梁海戦を知る上で最も重要な一次史料である。この史料に対する返書として豊臣秀吉が発行した朱印状と、石田三成等の奉行衆が発行した連署状が『久留島家文書』の中に存在する。この二通の書状も極めて重要な一次史料であるが、やはり隠されてしまうのか文禄・慶長の役関係の書籍でほとんど見ることはない。そこでこの場で紹介することにする。(読みやすいように句読点を付けた)


『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』


九月十八日之書状、被加披見候。番船少々、赤国之内、水栄浦ニ有之處、即時追散之由、被聞召届候。就其来嶋出雲事、手負相果候旨、不便ニ被思召候。息右衛門一(康親)事、可罷越旨申候間、則被遣候。猶増田右衛門尉・石田治部少輔・長束大蔵大輔、可申候也。

(慶長二年)十月十五日 ○(秀吉朱印)
毛利民部大輔とのへ
脇坂中務少輔とのへ
加藤 左馬助とのへ
菅 平右衛門とのへ
藤堂 佐渡守とのへ
 発行者:豊臣秀吉
 宛先:毛利高政・脇坂安治・加藤嘉明・菅達長・藤堂高虎(朝鮮在陣中の船手衆)



『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』

今度番舟重而有之所へ被押懸、即時ニ被追散由候。然処来嶋出雲方、蒙矢手被相果由、御注進之通、令披露候処、不便ニ被思召旨ニ候。則如被申越、子息右衛門一郎被差遣候。勿論跡目無异儀被仰付候。舎弟彦右衛門、家中之者以下、堅被申付通達 上聞候。弥きもをいるへき旨を、具以 御朱印被 仰出候。恐々謹言。
 
(慶長二年)十月十七日
増右
長盛(花押)
長大
正家(花押)
石治
三成(花押)
徳善
玄以(花押)
毛利民部大輔殿
藤堂 佐渡守殿
加藤 左馬助殿
脇坂中務少輔殿
菅 平右衛門殿
御宿所
 発行者:増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以(豊臣政権奉行衆)
 宛先:毛利高政・藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治・菅達長(朝鮮在陣中の船手衆)

 

 
二つの書状の要旨をまとめると
  1. 全羅右水営において日本水軍が朝鮮水軍を攻撃し、これを追い散らしたことを豊臣秀吉や奉行衆が認定したこと
  2. 来島通総の戦死を豊臣秀吉が不憫に思い、息子の右衛門一(康親)に来島家を相続させ戦地に派遣すること

1.について
 ここで注目すべきは、日本水軍が朝鮮水軍を追い散らした事実があり、それを豊臣秀吉や奉行衆という豊臣政権中枢が認定していることだ。すなわち、この二通の書状は実質的に鳴梁海戦における日本水軍戦勝認定書である。「鳴梁海戦で朝鮮水軍が日本水軍を撃退した」、「鳴梁海戦で朝鮮水軍が制海権を握った」、「日本軍の補給を断った」などといった言説が虚構であることはこれまで何度も証明しているが、ここでもこれら言説が一次史料に合致しないことが再認識される。

2.について
 来島通総の息子右衛門一(康親)は、父が戦死したとき大坂か伏見に居たと思われる。父の戦死後、秀吉に召し出され、来島水軍の統率者として朝鮮に派遣されることとなる。右衛門一はこのとき十六歳。
 右衛門一が到着までの間、前線の来島水軍を統率したのは通総舎弟の彦右衛門(村上通清)のようだ。鳴梁海戦後、全羅道西海に進撃した日本水軍の捕虜となった姜沆は『看羊録』に「通総が全羅右水営で戦死した時、弟が代わってその城に居ることになった」と記している。



おわりに
 それにしても、以前紹介の日本水軍戦闘報告書『九月十八日付船手衆注進状』 や、今回紹介した『十月十五日付船手衆宛、豊臣秀吉朱印状』、『十月十七日付船手衆宛、豊臣奉行衆連署状』は鳴梁海戦の真実を知る上で欠くことができない第一級の一次史料である。しかしながら今まで多くの文禄・慶長の役関連の書籍・論文の類が発表され、鳴梁海戦についても解説されているが、その中にこれら重要記録を反映させたものが一体どれだけ存在するのだろうか?
 今後、鳴梁海戦を解説しているにも係わらず、こうした重要記録の内容を無視したものがあるならば、それは価値のないものだと見做すべきであろう。