2014年9月30日火曜日

井邑軍議と鳴梁海戦、同一日付が示すもの

慶長2年(1597)9月16日に全羅道掃討中の諸将が会合し、掃討任務完了後の築城予定について決定した“井邑軍議”の決定事項を報告した書状について解説し、その日付が鳴梁海戦と同一であることが何を示すかについて述べる。

このことについて述べようと思えば、まず慶長の役で日本軍がいかなる戦略目標をもって行動していたかを初めから述べて行かなければならない。

文禄の役の後、続けられていた講和交渉は決裂し、再征が決定した。これが慶長の役である。


   赤国(全羅道)不残悉一篇ニ成敗申付、青国(忠清道)其外之儀者、可成程可相動事。
   右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。
(慶長二年)二月二一日付・豊臣秀吉朱印状』
慶長2年2月21日、豊臣秀吉が全軍に発令した戦略方針は、全羅道を残らず徹底的に掃討し、なるべく忠清道等にも侵攻する。それが完了したならば朝鮮南岸地域に城郭群を帰国予定の大名に担当を割り振って構築し、完成後は在番の大名以外は帰国するというものであった。

そして、こうした侵攻と撤収(ヒット・アンド・アウェイ)を長年にわたって何度も反復することで、敵を疲弊させ、その抗戦能力と抗戦意志を破壊し屈服させるというものだ。(慶長の役における日本軍戦略についての詳細は、私のHP“真相” 文禄・慶長の役・慶長の役戦略を参照のこと)

慶長2(1597)年6~7月にかけて遠征軍主力が渡海して慶長の役は本格化する。7月、漆川梁海戦で日本水軍は決定的勝利を得て制海権を獲得すると、水陸から全羅道へ向かって進攻が開始され、8月半ばに南原城と黄石山城を抜いて、下旬全羅道北部の全州へ入る、ここで全州軍議か開かれ、先に忠清道へ向かい、その後に全羅道掃討を行うことが決する。

この方針を受け、9月上旬までに、忠清道での掃討任務を成功裏に終えた陸軍諸将は、全羅道に戻り、井邑という場所に集まって、今後の全羅道掃討方針と、その完了後の倭城群構築について協議した。その決定事項を書き記し、豊臣政権中枢に送付したのが、この9月16日付の陸軍諸将連署状である。

原文
      謹而奉致言上候、

      先度自全州御使衆ニ如申上候、青国(忠清道)へ相動、国中過半発向仕、夫ゟ赤国(全羅道)うち相残こほり〳〵、各至割付、発向仕半ニ御座候、隙明申次第、御仕置城御普請ニ、取掛り可申候事、

   今度、青国、赤国致発向郡々之事、委細絵図ニ書付、致進上候事、

   御仕置城々、各致惣談、相定申候、就は小西摂津守城之儀、宛前は、しろ国(慶尚道)之内と、被成御諚候へ共、赤国順天郡内、所柄見合候得而、取出可申候事、

   釜山浦之儀、宛前は羽柴左近(宗茂)可致在城之旨、雖被仰出候、日本よりの渡口ニ御座候得は、御注進をも被申上、又御下知をも、先手へ差計被申觸候ために、毛利壱岐守在城被仕、可然と申儀ニ御座候事、

   羽柴左近事、慥成仁ニ而御座候、併其身若候間、島津・鍋島城之間、一城取拵、被致在番候へと申儀ニ候、此等之旨、宜預御披露候、恐惶謹言、

九月十六日
備前中納言秀家
蜂須賀阿波守家政
小西摂津守行長
薩摩侍従義弘
土佐侍従元親
吉川侍従広家
生駒讃岐守一正
鍋島加賀守直茂
島津又八郎忠恒
長曾我部右衛門大輔
池田伊予守
中川修理大夫
熊谷内蔵允直盛
早川主馬首
垣見和泉守一直
徳善院
増田右衛門尉殿
石田治部少輔殿
長束大蔵大輔殿
(征韓録)
大日本古文書・島津家文書之二(九八八)同文

ブログ主tokugawa訳文
      つつしんで申し上げます。

      さきに全州で(太閤様の)御使者に申し上げましたとおり、忠清道に進攻して、道内の過半に進撃、これから全羅道内で未だに残っている諸郡について、諸将の担当を決めて、進撃している途中です。この任務が完了次第、仕置の城(倭城)の築城工事にとりかかります。

   このたび、忠清道、全羅道の進撃した諸郡について、詳細を絵図に書きしるし、提出します。

   仕置の城々の予定地について、諸将で相談して、決定しました。小西行長在番の城について、以前は慶尚道内と決まっていましたが、全羅道の順天郡内へ、張り出して築くことにしました。

   釜山について、以前は立花宗茂が在城すると言っていましたが、日本からの渡海口なので、報告の上申や、御命令の前線諸軍への伝達をしなければならないため、毛利勝信が在城するほうがよいだろうということになりました。

   立花宗茂は、立派な人物ではありますが、まだ若いため、島津の城(泗川)と鍋島の城(昌原)の間(固城)に一つ城を築き、在番しようということです。これらの事柄について、(太閤様に)披露していただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

(慶長2年)九月十六日
宇喜多秀家
蜂須賀家政
小西行長
島津義弘
長宗我部元親
吉川広家
生駒一正
鍋島直茂
島津忠恒
長宗我部盛親
池田秀雄
中川秀成
熊谷直盛
早川長政
垣見一直
前田玄以殿
増田長盛殿
石田三成殿
長束正家殿



この井邑軍議の書状には、以前は慶尚道内と決定されていた倭城群の構築予定地の範囲を全羅道の順天まで拡大することが記されている。他にも立花宗茂在番の城についても言及されている。

鳴梁海戦は慶長2年の9月16日で、この書状の日付も9月16日である。鳴梁海峡と井邑は直線距離で120km以上離れた場所であり、この時代の情報通信能力で当日中に鳴梁海戦の情報が伝わることは絶対に有り得ない。朝鮮南岸の地に倭城群の構築することは、鳴梁海戦の結果を待つことなく、既に決まっていたことである。 「鳴梁海戦で朝鮮水軍が勝利し、敗北した日本軍は水陸ともに後退し、倭城を築いて籠城せざるをえなくなった。」などという主張が存在するが、このような主張が虚構であることには、多くの証拠があり、これまでも説明してきた。この9月16日付の陸軍諸将連署状も、それを証明する史料の一つである。


 ※一般にこの井邑で行われた軍議は“井邑会議”と呼ばれることが多い、また他にも文禄・慶長の役中に行われた軍議についても“会議”が使われることは多い。これが間違いというわけではない。しかし、“会議”では戦争の真っ只中に最前線で武将達が行うものとしては緊張感が伝わらない。よって当ブログではより適正な用語として“軍議”を使うこととする。